2019年09月14日 [お客様の声]
Yさん
1年前の夏実ママのバースデー・パーティーの事を書いていたら、ふとYさんの事を思い出しました。
Yさんは関西の大学を出て、バブルの頃に証券会社に入りました。バブルと共に弾けて消えた大手証券会社です。その後、ある資産家の資産運用を任されていたようです。目一杯バブルの恩恵に浴し、そしてバブルに溺れそうになりながらも、何とか自力でこの国の「失われた20年」に荒れ狂う波を乗り越えて来た人です。だからでしょうか。気前が良くて面倒見のいい人でした。Cozyの近所に住んでいて、目黒界隈の夜のお店では結構よく知られた存在みたいです。僕がYさんと出会ったのはCozyだったけれど、ある日Cozyのある目黒駅と反対の西口は権之助坂のスナックで偶然Yさんと鉢合わせしてから、時々お呼び出しを受け随分色々ご馳走してくださいました。
そのYさんから投資の話を聞いたことがあります。Yさんはもっぱら日経平均のオプション取引というのをやっていたそうです。なんでもそれが単純で分かりやすい。売りと買いを両方注文すれば損をしないんだとか。もっとも酔っ払ってすっかり脳みそにアルコールが染みこんでしまっている僕の頭には、そんな投資ノウハウを吸収する余裕はありませんでした。
Yさんは昼夜関係なく投資の事を考えていたみたいです。「SQ」とか言う取引の清算価格が出る第2金曜日の決済期日が近くなるとスマホを片手にCozyに現れては、その画面に表示される指数とにらめっこしながらお酒を飲んでいます。そんなYさんの様子に、その仕事の過酷さというか、プロフェッショナルの凄みのようなものを感じました。例えその時、Yさんがひどく酔っ払っていたとしても。
Yさんは60年代後半から80年代前半の洋楽ロックに明るい人でした。思春期の少年があの時代に夭逝した自堕落なロックスターに対する憧れを抱いたまま大人になったような破れかぶれな雰囲気を持っている人でもありました。Cozyのオープンマイクで唄うお客さんがいるとお店のギターを抱えて適当なコードを探し当てては伴奏に加わるのが得意で、夏実ママがピアノで弾いた曲のキーなんかもよく言い当てていました。学生時代はバンドマンだったそうです。そのバンドではギターを片手に当時流行していたスタイルカウンシルのお洒落な曲を演奏しては、毎晩のように女の子をお持ち帰りしていた。そんな自慢話を聞かせて貰いました。あながち嘘ではないでしょう。あれだけ気前がくて面倒見もよくて、ちょっとキツめの関西弁で押しの強いところが男っぽくて、その反面、真剣に仕事と向き合っていて、どこか壊れやすそうな危うさも持ち合わせていて。僕に持っていない要素をあれだけ持っている振れ幅の大きなタイプの人なのですから、モテない僕とは違ってきっと女性にモテたに違いありません。もちろん地球上の全ての女性にとまでは言うつもりはありませんが。
そんなモテる男Yさんを天国の神様も放っておきたくなかったのでしょうか。昼夜勝負を賭けてストレスを募らせ、それを発散させるかのようにお酒を飲んでいたYさんはやがて肝硬変になってしまいます。僕達常連仲間もその身体が心配で、CozyにYさんが現れてもお酒を飲ませないように気を遣いました。
あのバースデー・パーティーに出演することになったYさん。自らの出演をとても楽しみにしていました。当日はとてもしんどそうに現れたけれど、髪の毛は金髪。この日のために買ったというステージ栄えするピンク色のジャケットを羽織り、水色のギターをかき鳴らし、満場の拍手喝采を浴びていました。そういえば最近、目黒シネマで公開半年遅れにして映画「ボヘミアン・ラプソディ」をようやく観たけれど、Yさんの死期を悟って最後に弾けようとする姿は、なんだかあの映画のフレディ・マーキュリーさながら、ロックしていました。
Yさんはその後1週間ほどして入院してしまいます。僕はCozyの仲間たちを誘って度々お見舞いに行きました。Yさんが好きだという中島らもの小説やYさんが病室で気晴らしになりそうなCDをお土産に持っていったりもしました。しかしYさんはその年の11月にあっけなくお亡くなりになってしまいました。
Yさんはもうこの世にはいないけれど、このブログを読んでくださったCozyの常連仲間がCozyに集まれば、きっと「ホソイさん、あんな事書いちゃって」なんて言いながら、またそれぞれの心のなかにYさんを召還してくれるに違いありません。だってCozyのお客さんってそんな人たちばかりですから。
Yさんは関西の大学を出て、バブルの頃に証券会社に入りました。バブルと共に弾けて消えた大手証券会社です。その後、ある資産家の資産運用を任されていたようです。目一杯バブルの恩恵に浴し、そしてバブルに溺れそうになりながらも、何とか自力でこの国の「失われた20年」に荒れ狂う波を乗り越えて来た人です。だからでしょうか。気前が良くて面倒見のいい人でした。Cozyの近所に住んでいて、目黒界隈の夜のお店では結構よく知られた存在みたいです。僕がYさんと出会ったのはCozyだったけれど、ある日Cozyのある目黒駅と反対の西口は権之助坂のスナックで偶然Yさんと鉢合わせしてから、時々お呼び出しを受け随分色々ご馳走してくださいました。
そのYさんから投資の話を聞いたことがあります。Yさんはもっぱら日経平均のオプション取引というのをやっていたそうです。なんでもそれが単純で分かりやすい。売りと買いを両方注文すれば損をしないんだとか。もっとも酔っ払ってすっかり脳みそにアルコールが染みこんでしまっている僕の頭には、そんな投資ノウハウを吸収する余裕はありませんでした。
Yさんは昼夜関係なく投資の事を考えていたみたいです。「SQ」とか言う取引の清算価格が出る第2金曜日の決済期日が近くなるとスマホを片手にCozyに現れては、その画面に表示される指数とにらめっこしながらお酒を飲んでいます。そんなYさんの様子に、その仕事の過酷さというか、プロフェッショナルの凄みのようなものを感じました。例えその時、Yさんがひどく酔っ払っていたとしても。
Yさんは60年代後半から80年代前半の洋楽ロックに明るい人でした。思春期の少年があの時代に夭逝した自堕落なロックスターに対する憧れを抱いたまま大人になったような破れかぶれな雰囲気を持っている人でもありました。Cozyのオープンマイクで唄うお客さんがいるとお店のギターを抱えて適当なコードを探し当てては伴奏に加わるのが得意で、夏実ママがピアノで弾いた曲のキーなんかもよく言い当てていました。学生時代はバンドマンだったそうです。そのバンドではギターを片手に当時流行していたスタイルカウンシルのお洒落な曲を演奏しては、毎晩のように女の子をお持ち帰りしていた。そんな自慢話を聞かせて貰いました。あながち嘘ではないでしょう。あれだけ気前がくて面倒見もよくて、ちょっとキツめの関西弁で押しの強いところが男っぽくて、その反面、真剣に仕事と向き合っていて、どこか壊れやすそうな危うさも持ち合わせていて。僕に持っていない要素をあれだけ持っている振れ幅の大きなタイプの人なのですから、モテない僕とは違ってきっと女性にモテたに違いありません。もちろん地球上の全ての女性にとまでは言うつもりはありませんが。
そんなモテる男Yさんを天国の神様も放っておきたくなかったのでしょうか。昼夜勝負を賭けてストレスを募らせ、それを発散させるかのようにお酒を飲んでいたYさんはやがて肝硬変になってしまいます。僕達常連仲間もその身体が心配で、CozyにYさんが現れてもお酒を飲ませないように気を遣いました。
あのバースデー・パーティーに出演することになったYさん。自らの出演をとても楽しみにしていました。当日はとてもしんどそうに現れたけれど、髪の毛は金髪。この日のために買ったというステージ栄えするピンク色のジャケットを羽織り、水色のギターをかき鳴らし、満場の拍手喝采を浴びていました。そういえば最近、目黒シネマで公開半年遅れにして映画「ボヘミアン・ラプソディ」をようやく観たけれど、Yさんの死期を悟って最後に弾けようとする姿は、なんだかあの映画のフレディ・マーキュリーさながら、ロックしていました。
Yさんはその後1週間ほどして入院してしまいます。僕はCozyの仲間たちを誘って度々お見舞いに行きました。Yさんが好きだという中島らもの小説やYさんが病室で気晴らしになりそうなCDをお土産に持っていったりもしました。しかしYさんはその年の11月にあっけなくお亡くなりになってしまいました。
Yさんはもうこの世にはいないけれど、このブログを読んでくださったCozyの常連仲間がCozyに集まれば、きっと「ホソイさん、あんな事書いちゃって」なんて言いながら、またそれぞれの心のなかにYさんを召還してくれるに違いありません。だってCozyのお客さんってそんな人たちばかりですから。